藤川大祐 授業づくりと教育研究のページ

藤川大祐のブログです。千葉大学教育学部教授(教育方法学、授業実践開発)。プロフィールは「このブログについて」をご覧ください。

私たちはデジタル・シティズンシップ教育をどのように論じるべきなのだろうか?

デジタル・シティズンシップ教育について調べていたら、坂本旬さんが私の文章を引用して議論してくださっていたことを知りました。

 

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坂本さんのこの記事は2021年4月22日のものなので、1年半も経過していたことになります。気がつくのが遅く、申し訳ない限りです。

 

坂本さんは、当時出たばかりの私の著書『教師が知らない「子どものスマホSNS」新常識』(教育開発研究所、2021)での以下の議論を批判的に取り上げてくださっています。

 

「デジタル」だけを分ける意味はなくなりつつあるようにも思われます。現代の社会において、すでにデジタルとアナログ、あるいはネットとリアルを分けるという考え方がもう古いものとなりつつあるように思われます。
 この状況にあって私たちが目指すべきは、デジタル技術がさまざまな場所で使われている市民社会に参画するための規範としての、「(新たな)シティズンシップ」の育成であるべきです。(p.102)

 

坂本さんは、欧州評議会の議論(残念ながら現在はリンク切れのようです)を引用し、「つまり、デジタル・シティズンシップ教育は教育とシティズンシップのプロセスを切り離してはいけないのです」ています。

 

なるほど、欧州評議会がデジタル・シティズンシップを従来のシティズンシップと切り離さずに論じていることはわかります。ただ、私の知る限り、内外のデジタル・シティズンシップ(教育)に関する議論では、デジタル・シティズンシップはかなりデジタル技術を使いこなす話が中心であり、市民性をどう育てるかという話は前面には出てきません。

たとえば、坂本さんも引用されている米国ISTE関連のRibble,  M. の著書 "Digital Citizenship in Schools" (第3版、2015年)でも、デジタル・シティズンシップは、「誰もがデジタル世界で働き、プレイできるようになるために、テクノロジーのポジティブな面を強化する」概念として記されており、デジタル・シティズンシップの9つの要素も(版や論文によって微妙な違いはありますが)以下のようにデジタル技術に直接関わる項目ばかりです。

 

  • デジタル・アクセス(Digital Access
  • デジタル商取引(Digital Commerce)
  • デジタル・コミュニケーション(Digital Communication)
  • デジタル・リテラシー(Digital Literacy)
  • デジタル・エチケット(Digital Etiquette)
  • デジタル法(Digital Law)
  • デジタル権利・責任(Digital Rights and Responsibility)
  • デジタル健康・ウェルネス(Digital Health and Wellness)
  • デジタル・セキュリティ(Digital Security)

 

坂本さんほかによる著書『デジタル・シティズンシップ コンピュータ1人1台時代の善き使い手をめざす学び』(大月書店、2020)でも、副題からもわかるように、従来の「閉塞感」ある情報モラル教育とは違って、コンピュータの「善き使い手」を目指すことがデジタル・シティズンシップとして論じられています。

 

私は、坂本さんたちが批判されるような意味での情報モラル教育にも関わってきましたし、情報を積極的に活用する方向での教育にも関わってきました。だから、従来の情報モラル教育を一方的に否定する立場はとりませんが、坂本さんたちが描かれているようなコンピュータの「善き使い手」を目指す方向での教育を推進することには大賛成です。

 

ただし、私は、起業家教育や主権者教育にも関わってきた者として、コンピュータの「善き使い手」を目指す教育にとどまることをよしとする立場はとりません。たとえば、小学生が「会社」を作り、デジタル技術を積極的に活用しつつ、実際の企業と商談をし、契約をして、「仕事」をするプログラム。たとえば、中学生が問題意識をもち、自分たちでデジタル技術を活用して調査を行って役所等に行って政策提言を行い、その上でネットでの発信をしてアドボカシー活動を進めていく授業。こうしたものに関わりながら、子どもが子どもなりに社会と関わり、社会の担い手としての経験を重ねられるような教育のあり方を考えています。このような教育が多様に行われ、子どもが子どもなりに社会に参画でき、子どもの意見表明権等の権利が尊重されるようになることが、一つのゴールだと考えています。

 

私の著書で「デジタル・シティズンシップ教育の、その先へ」という見出しのもとで書いた文章は、こうした問題意識に基づいています。著書の中で書いた地域おこしの例などを見ていただければ、ご理解いただけるものと思います。

 

「デジタル・シティズンシップ(教育)」という言葉を、私たちはどのように使うべきなのでしょうか。実際に、コンピュータの「善き使い手」を目指す方向での教育という意味合いで使われていることが多いのですから、私としては基本的にそのような意味で使うことが妥当だと思います。ただし、本来のシティズンシップ教育と断絶させる必要はないと思いますので、必要があれば、「デジタル(もある)社会に、よく参加できるようにするための教育」くらいの意味で使うことが適当ではないでしょうか。そして、私がゴールとするような教育は、やはり「デジタル・シティズンシップ(教育)」とは違う言葉で呼び、これまで「デジタル・シティズンシップ(教育)」とされてきたものとは区別して議論した方がよいのかなと思います。

 

以上、私の考えを書かせていただきました。坂本さんには、私の議論を取り上げていただいたこと、そしてこのように考えを書くきっかけを作っていただいたことに、感謝いたします。