藤川大祐 授業づくりと教育研究のページ

藤川大祐のブログです。千葉大学教育学部教授(教育方法学、授業実践開発)。プロフィールは「このブログについて」をご覧ください。

文部科学省「情報活用能力ワーキンググループ」に提出した提案

 文部科学省の「学校教育の情報化に関する懇談会」の「情報活用能力ワーキンググループ」の委員をつとめさせていただきます。先般「宿題」として提案を出したのですが、残念なことにまとめの案にはあまり反映されていません。皆様に問うべく、ここに掲載させていただきます。 情報活用能力育成に関して                                       藤川大祐(千葉大学1.基本的な考え方  これまで「情報活用能力」と言われていたことがらは、情報機器やネットワークの普及や進歩に伴い、他の能力と切り離して考えられるべき特別な能力ではなくなりつつある。10年後の時代を見据えれば、高度情報社会にふさわしい各教科のあり方を検討することが必要であり、「情報活用能力」という考え方が不要になることこそが望ましい。本WGにおいては、これまでのいわゆる情報教育の枠組みを超えて、10年後の教育課程の全面刷新を視野に議論すべきである。必要な教育内容が明らかになった段階で適切にICT機器を活用することが検討される必要はあるが、機器の使用が自己目的化することは避けられねばならない。ICT活用は、導入・維持費用や機器の準備、不調への対応等のコストをはるかに上回るメリットがあることを条件として推進されるべきであり、この条件がない状況では特に機器を使わずに必要な能力の育成がはかられなければならない。言い換えれば、教育用ICT機器は、以下に述べるような教育活動が円滑に進むことに寄与するように開発されることが求められる。 2.10年後の社会の展望  今回の議論の前提として、10年後の社会がどのような社会となるかを検討しておく必要がある。  各所で言われているように、10年後の社会が「知識基盤社会」と言われる社会であることは当然であろう。この社会においては、必要な情報が電子的な文字とそれに付随するデジタルデータによって記録され、さまざまな形で共有され、活用される。既存の情報を活用することによって解決できる問題については、効率的に解決されることが当然となるであろう。他方、国際社会における貧困や対立、地球環境問題といった大きな問題や、個々の人間がどのように関わり何に生きがいをもっていきていくかという個人の生き方に関わる問題等、容易に解決できない問題がより困難な形で私たちを悩ませることも創造できる。こうした社会では、私たちが互いの考え方や経験を含む諸条件の違いを超えて連携協力し、知恵を出し合い、議論し、支え合って解決策を探っていかねばならない。  10年後の社会で教育を受ける子どもたちは、知識基盤社会の中で情報を批判的に吟味して活用し、自らも適切に情報を発信できる能力を身につけるとともに、短時間の情報処理では対応できない問題に対応できるような広く深い教養を身につけ、さらには自らの立場をやがて確立した上で他者と連携協力するために必要なモラルや能力を身につける必要がある。 3.具体的な教育のあり方 (1) 批判的思考を基盤とした読み書きの教育  今後さらにネットワークを介して時間、空間を超えたコミュニケーションが重要となること、写真や映像があっても人間が基本的に言葉でコミュニケーションをすることを考えれば、「話す」「聞く」以上に「読む」「書く」を重視した教育がなされるべきである。  多くの文章を読むことは、より広い学習の基盤となると言える。今後は多様な文章へのアクセスが容易になり、信憑性のあやしい文章、特定の方向に読み手を誘導しようとする文章、対立する立場がありうる文章等、批判的に読むことが強く求められる文章に子どもたちが出会うことが多くなると言える。従来のように評価の定まった「名文」を読ませることの重要性は変わらないとしても、対立する複数の文章を読ませる、誇大広告や詐欺サイトの文章の意図を検討する、心に訴える文章のしくみを検討するといった読み方が必要となる。多くの文章から短時間で求める文章を選択できるようにするための、広く浅い比べ読みや検索ができるようにすることが必要だ。紙の書籍は相変わらず重要であろうが、他方で大量の文章に容易にアクセスするために電子デバイスを活用することは当然必要である。図書館の蔵書が電子化され、一定の制限のもとで児童生徒が教室や家庭の電子デバイスから容易にアクセスできる環境を整える等、環境精美が当然求められる。読書指導は、物語・小説等のフィクションだけでなく、社会や科学等について書かれたノンフィクションについてより多くなされる必要がある。  「書く」ことは伝統的には、自分の思いを書くことが重視されてきた部分があるが、今後は用件を短い言葉で的確に書くことや他の文章との違いが明確になるように書くこと等が求められる。話し合いの授業等が広く行われているが、話す前に個人が事実や意見を整理して書く、話し合った結果を端的に黒板等に書くといった活動が重視される必要がある。また、授業の内容を当番制でまとまった文章にして蓄積する等、すでにある内容を編集して記述することも求められる。算数・数学や理科等のいわゆる理系教科においても、必要なことを論理的に記述する訓練が日常的になされるべきである。当然、電子デバイスに効率的に文章を入力する方法であるPC用キーボードへのタッチタイピングの力(ローマ字についての理解も含む)は、小学校の中学年くらいまでに完璧にしておく必要がある。協力型の学習が必要であることは当然であるが、音声言語のみによらず、文字で伝え、記録するということが重視されるべきだ。  もちろん、「話す」「聞く」活動が不要となるわけではない。以上のような読み書きの活動を重視しつつも、「要点が伝わるよう、見出しや番号等をつけて正確に話す」「相手の論旨をずらさずに、メモをとったり質問したりしながら正確に聞く」といった教育がなされる必要がある。 (2) 情報活用に関わる数学・科学に関する能力の育成  社会でやりとりされる情報の中には、さまざまな統計や科学的知見が含まれている。ニュース記事に統計的な数値が含まれるだけで信憑性が高いと判断され、「脳によい」「専門家によると」といった言葉が添えられていれば多くの人は無批判に情報を受容してしまう。しかし、こうした点に踏み込んで情報のやりとりができなければ、情報を適切に扱えるとは考えられない。  たとえば、統計については専門的な学習は高校の数学でよいとしても、新聞記事等にあらわれる統計の言葉の基本的な意味、そこから可能な推論等については、小学校から段階を追って指導がなされる必要がある。当然、児童生徒自らが調査活動をし、生のデータを表計算ソフト等で集計、分析し、グラフや表を作成することも必要である。  また、科学に関わる情報については、理科の中核的な内容と関連した科学読み物を読ませる等の指導が必要であろう。特に、科学の知見は基本的には仮説であり、新しいパラダイムのもとでは否定される可能性が常にあるといった、科学哲学的な物の見方が常識として身につけられるように、指導する必要がある。  こうしたことがらは、最近では「数学的リテラシー」「科学的リテラシー」として扱われているものと重なる。言い方を変えれば、情報活用には、数学的リテラシーや科学的リテラシーが求められるということである。 (3) 情報社会についての理解  情報を扱う際には、メディアの特質を理解することが不可欠であり、メディア産業やコンテンツ産業のあり方、こうした産業で用いられている基幹的技術の概要等について、児童生徒が理解する必要がある。  小学校低学年の子どもでも、テレビ番組はもちろん、アニメや電子ゲームを楽しんだりするが、そうしたものがどのように作られて送られているかということをあらためて考える機会は少ない。しかし、この段階から、メディア漬けやメディアを通じた過剰な消費の問題もあらわれているのであり、小学校低学年から段階を追って情報社会のあり方についての理解を促すことが求められる。小学校5年生の社会科ではテレビなどの仕事が扱われているが、より広く、メディア産業、コンテンツ産業の状況や放送・通信等の基本的なしくみを扱う必要があろう。戦争プロパガンダ報道被害といった問題はこれまでもある程度扱われてはいるが、今後はさらに広く、広告や広報のあり方全般までを扱うことも検討されるべきだ。当然、キャリア教育の視点からこうした産業に従事する人に児童生徒が接する機会を設けることも必要である。  また、過去の文学作品や芸術作品を扱う際に、その時代のメディア状況がどのようであり、当時の社会やそれ以降の社会において当該の作品がどのように受容されていたのかを理解することも求められ、国語や芸術教科のあり方も見直される必要がある。さらには、歴史や地理の授業において、ある時代もしくは地域のメディア状況を積極的に扱うようにすることも検討されるべきであろう。  社会のあり方についての理解を深める中で、コミュニケーションによって多くの人々の連携が生まれ、立場の違いを超えた問題解決がもたらされうることを児童生徒が学ぶことも重要である。 (4) コンテンツ開発能力の育成  情報社会における「読み書き」は文字情報が中心になされると言えるが、写真、動画(アニメーションを含む)、絵、音楽、その他のソフトウエア等、文字以外のコンテンツも扱われ、こうしたコンテンツの開発について児童生徒がある程度の経験をしておくことが検討されるべきである。図工・美術や音楽といった教科において、芸術や表現といったことにとどまらず、情報社会におけるコンテンツ開発の能力育成につながる内容が増える必要がある。当然、メディアを通した表現の受容についても、扱う必要がある。言葉に関わることがらについても、文学作品や書道等に関しては、同様である。  また、ソフトウエア開発については、PCやスマートフォン向けの実用的なソフトウエアの開発が容易になりつつあることを考え、高校の選択科目(教科「情報」が残るなら「情報」も)等で扱うことが検討されてよい。社会人となって自らがソフトウエアを開発する学生が多くなるとは考えにくいが、多くの者が多様なソフトウエアを活用することを考えれば開発者側の立場を経験することは重要だ。  なお、高校等において、こうしたコンテンツ開発に特に重点を置く学校が相当数できることにも期待したい。 以上