藤川大祐 授業づくりと教育研究のページ

藤川大祐のブログです。千葉大学教育学部教授(教育方法学、授業実践開発)。プロフィールは「このブログについて」をご覧ください。

私たちはデジタル・シティズンシップ教育をどのように論じるべきなのだろうか?

デジタル・シティズンシップ教育について調べていたら、坂本旬さんが私の文章を引用して議論してくださっていたことを知りました。

 

note.com

 

坂本さんのこの記事は2021年4月22日のものなので、1年半も経過していたことになります。気がつくのが遅く、申し訳ない限りです。

 

坂本さんは、当時出たばかりの私の著書『教師が知らない「子どものスマホSNS」新常識』(教育開発研究所、2021)での以下の議論を批判的に取り上げてくださっています。

 

「デジタル」だけを分ける意味はなくなりつつあるようにも思われます。現代の社会において、すでにデジタルとアナログ、あるいはネットとリアルを分けるという考え方がもう古いものとなりつつあるように思われます。
 この状況にあって私たちが目指すべきは、デジタル技術がさまざまな場所で使われている市民社会に参画するための規範としての、「(新たな)シティズンシップ」の育成であるべきです。(p.102)

 

坂本さんは、欧州評議会の議論(残念ながら現在はリンク切れのようです)を引用し、「つまり、デジタル・シティズンシップ教育は教育とシティズンシップのプロセスを切り離してはいけないのです」ています。

 

なるほど、欧州評議会がデジタル・シティズンシップを従来のシティズンシップと切り離さずに論じていることはわかります。ただ、私の知る限り、内外のデジタル・シティズンシップ(教育)に関する議論では、デジタル・シティズンシップはかなりデジタル技術を使いこなす話が中心であり、市民性をどう育てるかという話は前面には出てきません。

たとえば、坂本さんも引用されている米国ISTE関連のRibble,  M. の著書 "Digital Citizenship in Schools" (第3版、2015年)でも、デジタル・シティズンシップは、「誰もがデジタル世界で働き、プレイできるようになるために、テクノロジーのポジティブな面を強化する」概念として記されており、デジタル・シティズンシップの9つの要素も(版や論文によって微妙な違いはありますが)以下のようにデジタル技術に直接関わる項目ばかりです。

 

  • デジタル・アクセス(Digital Access
  • デジタル商取引(Digital Commerce)
  • デジタル・コミュニケーション(Digital Communication)
  • デジタル・リテラシー(Digital Literacy)
  • デジタル・エチケット(Digital Etiquette)
  • デジタル法(Digital Law)
  • デジタル権利・責任(Digital Rights and Responsibility)
  • デジタル健康・ウェルネス(Digital Health and Wellness)
  • デジタル・セキュリティ(Digital Security)

 

坂本さんほかによる著書『デジタル・シティズンシップ コンピュータ1人1台時代の善き使い手をめざす学び』(大月書店、2020)でも、副題からもわかるように、従来の「閉塞感」ある情報モラル教育とは違って、コンピュータの「善き使い手」を目指すことがデジタル・シティズンシップとして論じられています。

 

私は、坂本さんたちが批判されるような意味での情報モラル教育にも関わってきましたし、情報を積極的に活用する方向での教育にも関わってきました。だから、従来の情報モラル教育を一方的に否定する立場はとりませんが、坂本さんたちが描かれているようなコンピュータの「善き使い手」を目指す方向での教育を推進することには大賛成です。

 

ただし、私は、起業家教育や主権者教育にも関わってきた者として、コンピュータの「善き使い手」を目指す教育にとどまることをよしとする立場はとりません。たとえば、小学生が「会社」を作り、デジタル技術を積極的に活用しつつ、実際の企業と商談をし、契約をして、「仕事」をするプログラム。たとえば、中学生が問題意識をもち、自分たちでデジタル技術を活用して調査を行って役所等に行って政策提言を行い、その上でネットでの発信をしてアドボカシー活動を進めていく授業。こうしたものに関わりながら、子どもが子どもなりに社会と関わり、社会の担い手としての経験を重ねられるような教育のあり方を考えています。このような教育が多様に行われ、子どもが子どもなりに社会に参画でき、子どもの意見表明権等の権利が尊重されるようになることが、一つのゴールだと考えています。

 

私の著書で「デジタル・シティズンシップ教育の、その先へ」という見出しのもとで書いた文章は、こうした問題意識に基づいています。著書の中で書いた地域おこしの例などを見ていただければ、ご理解いただけるものと思います。

 

「デジタル・シティズンシップ(教育)」という言葉を、私たちはどのように使うべきなのでしょうか。実際に、コンピュータの「善き使い手」を目指す方向での教育という意味合いで使われていることが多いのですから、私としては基本的にそのような意味で使うことが妥当だと思います。ただし、本来のシティズンシップ教育と断絶させる必要はないと思いますので、必要があれば、「デジタル(もある)社会に、よく参加できるようにするための教育」くらいの意味で使うことが適当ではないでしょうか。そして、私がゴールとするような教育は、やはり「デジタル・シティズンシップ(教育)」とは違う言葉で呼び、これまで「デジタル・シティズンシップ(教育)」とされてきたものとは区別して議論した方がよいのかなと思います。

 

以上、私の考えを書かせていただきました。坂本さんには、私の議論を取り上げていただいたこと、そしてこのように考えを書くきっかけを作っていただいたことに、感謝いたします。

子どもの意見表明権とアドボカシー教育

千葉大学教育学部附属中学校では、大学と連携した授業がいろいろと行われています。その中で、ゼミ制で実施している全校の総合的な学習の時間の中に、大学院生の郡司日奈乃さんらが担当している「アドボカシー」ゼミがあります。「アドボカシー」とはもともと「擁護」とか「支援」という意味であり、支援を必要としている人のための政策実現活動と考えていただけるとよいと思います。アドボカシーゼミを選択したのは全校で3人だけですが、ここまで「起立性調節障害」に関わる問題について調査や提言作成の活動を精力的に進めてきました。

 

昨日9月14日は、総合的な学習の時間の各ゼミが1日全部使って学校外で活動ができる校外学習の日でした。アドボカシーゼミのメンバーたちは、午前中は千葉市議会、午後は文部科学省を訪問し、自分たちで作成した提言書を提出するとともに、文部科学省記者クラブで記者会見を行いました。千葉市議会では教育未来委員会所属の田畑直子議員と伊藤隆広議員が、文部科学省では伊藤孝江政務官が主に対応してくださり、それぞれ教育委員会事務局の方々や文部科学省の各担当の方々が陪席くださりました。記者会見も含めて生徒たちはかなり緊張している様子でしたが、皆様が生徒たちの話を真摯に聞いてくださり、生徒たちは自分の言葉でしっかりと考えを伝えていました。貴重な機会を与えてくださった皆様に感謝しております。

 

生徒たちの提言の内容は、以下に掲載されています。

 

www.change.org

 

また、昨日の文部科学省での記者会見等については、以下のメディアで報じられています。

 

共同通信
https://nordot.app/942714640207314944
(地方紙等のサイトにも同じ記事が掲載されています)

教育新聞
https://www.kyobun.co.jp/news/20220914_06/

日テレNEWS(動画あり)
https://news.ntv.co.jp/category/society/1b2143b14bcd481a90aadfef4da869ed
(系列局のサイトにも同じ記事が掲載されています)

東京新聞
https://www.tokyo-np.co.jp/article/202213

 

起立性調節障害というテーマは郡司さんが提案したものですが、生徒たちは強い関心をもってくれました。起立性調節障害についての無理解が偏見につながり悩んでいる人がいるという事実に対して、生徒たちはなんとかしたいと考えたようです。他の病気を経験していることから、切実に感じられたという生徒もいました。私自身、起立性調節障害への無理解からいじめ被害に遭った人の事例などにも関わってきましたので、このテーマは重要と考えています。

 

中学生が意見を発表するというと、しっかりと原稿を用意して読み上げるということが多いのかもしれません。しかし、今回生徒たちは自分の言葉で語ることとし、相手を意識して原稿に頼らずに考えを伝えていました。提言の内容についても、大人が作ることはせず、生徒たちが多くの方に話を聞き、指導者は原稿を整える手伝いをするという程度でした。

 

大学生などと異なり中学生は活動できる時間が限られ、今回の場合には基本的に授業時間のみに限られます。ですので、誰かに話を聞きに行くということはなかなか難しいのですが、コロナ禍になって以降はZoom等を使用したオンラインミーティングが容易に実施できるようになったため、時間や場所の制約があまり問題とならなかったように思われます。その上で、昨日のように終日校外で活動できる日が設定されていることから、その日に合わせて活動を組むことで、かなり自由度が高くなることがあらためて感じられました。

 

こども基本法やこども家庭庁ができて、子どもの意見表明権が注目されています。子どもの意見表明権の保障には、単に意見表明の機会を作るだけでは不十分であり、子どもたちがさまざまな問題について学び、さまざまな人と対話をして、自らの意見を深める過程が不可欠です。この意味で、私が長年関わっているディベート教育や、今回のアドボカシーゼミなどのように、子どもが社会問題について議論しながら学ぶ取り組みがもっともっと広がる必要があると考えています。

 

私の研究室では昨年度、「多様化時代における主権者教育に関する研究」を主題に研究プロジェクトを進めました。報告書が以下に掲載されています。

 

https://ace-npo.org/fujikawa-lab/other.html

 

アドボカシーについて実践的に学ぶ等、従前の「主権者教育」の枠にとどまらない実践研究を今後も進めていきたいと考えています。

講演「いじめに対応できる学校づくり」資料

このほど、帯広市教育委員会よりご依頼をいただき、「いじめに対応できる学校づくり」をテーマに、小中学校の教員等の方々を対象に講演をさせていただきました。

 

これまでもいじめ対応について講演をさせていただくことはありましたが、コロナ禍で講演を控えていたこともあり、久しぶりにいじめ対応について講演することとなりました。このため、これを機に、資料を完全に新しく作って講演をさせていただくことにしました。

 

講演の資料を掲載させていただきますので、参考にしていただければ幸いです。以下の点が新たなポイントと考えています。

 

・いじめ発見のきっかけがアンケートではまずい。もっと早く発見できるようにするには、教員が話を聞ける存在であることと、ストレスチェックを活用することが重要だ。

・いじめを認知しようとしても限界がある。児童生徒の苦痛を認知することが重要だ。

・組織的対応は、毎日管理職まで報告がなされることが重要だ。

・いじめへの対処は、いじめ防止対策推進法第23条に愚直に従ってほしい。

・いじめへの対処で、安易に謝罪をさせてはならない。

・いじめ予防は、児童生徒が「いじめは悪い」と認識していることを前提に、誰かを攻撃したくなったらどうするかを考えさせる。

法令遵守は当然。「ケアする学校」という考え方で学校のあり方を捉え直そう。

 

少しずつ動ける状況になりつつあります。いじめ対応を改善したいという教育委員会や学校があれば、力になりたいです。ご相談いただければ幸いです。

 

www.dropbox.com

外国から来た児童生徒を「発達障害」としてしまう状況をどう変えるのか

6月18日(土)、私たちの研究室、NPO等が主催する研究会である「千葉授業づくり研究会」が第150回となる節目となる回を開催しましたた。講師に『「発達障害」とされる外国人の子どもたち』の著者である金春喜さんをお招きし、外国から来た児童生徒の教育に関して濃密な話を聞かせていただき、参加者でディスカッションを行いました。

 

「発達障害」とされる外国人の子どもたち――フィリピンから来日したきょうだいをめぐる、10人の大人たちの語り | 金 春喜 |本 | 通販 | Amazon

 

この書籍のタイトルに示されているように、外国から来た児童生徒が発達障害として扱われるケースが日本で育った児童生徒よりも明らかに高い割合となっています。手厚い教育を受けさせようとする配慮等から、発達障害には該当しないと考えられながら発達障害として扱われるケースもあるようです。金春喜さんは、京都大学大学院でこの問題について研究し、修士論文の成果を書籍として発表されています。

 

現在はハフポスト日本版ニュースエディターとして活躍されている金さんは、パワーポイント72枚にわたる資料を作成し、緻密に丁寧に、ご自身が研究されたり取材をされたりした内容を中心に、外国から来た児童生徒の教育についての問題を話してくださいました。

 

金春喜さんがこの問題を取り上げられるまで、外国から来た児童生徒が発達障害として扱われている事例は、外国人でかつ発達障害という二つのカテゴリーでのマイノリティの問題として考えられていたそうです。しかし、金春喜さんの書籍が出て以降、「日本語指導が必要」な児童生徒の特別支援学級在籍率が、児童生徒全体の1.4倍になることが明らかになるなど、外国から来た児童生徒が発達障害に該当しないにもかかわらず発達障害として扱われている場合が多いことが注目されるようになっています。

 

この問題の背景には、外国から来た児童生徒が日本の学校に在籍しても、日本語指導等の体制があまりにも脆弱であり、特別支援教育の対象となった方が手厚い教育が受けられるように見えてしまうということがあるようです。ただ、短期的には特別支援教育で救われることがあっても、進学や就職を考えたときに、選択肢が狭まったり、潜在的な能力をあまり活かせなかったりすることになりかねません。金春喜さんのお話では千葉県は特に小中高での日本語教育担当スタッフの配置が少ないとのことですので、千葉県においてもぜひ改善を進めていただきたいと思います。

 

政府としても小中高での外国人児童生徒への日本語教育の充実を進める方針はあるようです。今後コロナが落ち着けば、外国から多くの子どもが日本にやってくることが考えられますので、ぜひ着実に外国から来た児童生徒への支援体制を整えてほしいと思います。

 

もちろん、外国から来た児童生徒への支援体制の充実は、多忙を極める教員たちの負担を増やす方向で進めることはできません。日本語指導スタッフの増員は当然として、外国から来た児童生徒が日本語や日本についての知識をあまり使わなくても中学校や高校を卒業できるようにする制度改革を行う等の検討を進め、外国から来た児童生徒がむしろ国際性を強みにして活躍しやすくなるような改革を行う必要があるのではないでしょうか。

「教師不足」の解決には、「特別免許状の積極活用」でなく、正規採用教員を2001年度並みに戻すことが必要だ

ようやく「教師不足」が広く認知されるようになり、末松文科相が国会で、特別免許状の積極活用を進めることを表明し、「あらゆる手段を講じて教師の確保に取り組んでいただきたい」と話しました。

 

www.kyobun.co.jp

 

特別免許状を乱発しても、教員免許をとっていない人にいきなり学級担任を任せることはできませんし、そもそも特段待遇がよくない教職に就きたい人が多いとも考えにくいので、特別免許状の積極活用だけで教師不足への十分な対応になるとは考えられません。しかし、文部科学省が本気を出して具体的な対応を進めれば、教師不足への対応は可能だと考えられます。

 

まず確認しておかなければならないのは、今問題になっている「教師不足」は、臨時的任用教員すなわち非正規雇用の教員が少ないということです。正規教員を採用する教員採用試験は競争率が下がったとは言え低くても2倍以上がほとんどなので、正規教員の希望者が少なすぎて埋まらないというほどではありません。正規教員を補う非正規雇用の教員が見つからないケースが多いことが問題になっているわけです。

 

文部科学省ではこのようになってしまった要因を適切に分析できていないように思われます。私は、2001〜2011年の10年間で小中学校の臨時的任用教員への依存率が急激に上がり、その後も臨時的任用教員への依存率が高止まりしていることが今問題になっている「教師不足」の主たる要因であることを示しました。

 

www.kyobun.co.jp

 

念のため、上記記事に載せた表も転載しておきます。

 

 

現状の「教師不足」というのは、そもそも臨時的任用教員になりたい人があまり多いはずはないのに、正規の教員を減らして臨時的任用教員の数を増やそうとしたために、臨時的任用教員になってくれる人がなかなか見つからないということです。

 

このように考えれば、解決が可能なことがわかるはずです。今すぐ、正規雇用の教員の数を増やし、臨時的任用教員の割合を2001年程度まで抑えるのです。具体的には、文部科学省が必要な予算を確保して以下のことを行えばよいでしょう。

 

  • 教育委員会に対して、「教師不足」となっている分の教員を年度途中の正規採用で確保することを指示し、そのために必要な予算をつける。各教育委員会は、現在不足している数+今後不足が予想される数の教員募集を今すぐ行い、5月にでも6月にでも採用する。
  • 教育委員会に対して、令和5年度以降早急に正規教員の比率を2001年ごろの水準まで戻すことを指示し、人件費増加分の一定割合を国庫負担する。この際、現在臨時的任用教員である人については、校長の推薦等があれば試験を免除して採用を決定する等、臨時的任用教員が円滑に正規教員に移行できるようにする。
  • 上記の策を円滑に進めるため、今すぐに、更新講習を受けなかったために教員免許が使えなくなっている人について、無条件で免許を復活させる。

 

これだけで、現在の「教師不足」の問題はほぼ解消できるものと思われます。教員の定数自体を増やすわけではないので、必要な予算はそれほど大きなものではありません。

 

なお、上記の策でも十分な教員を集めることができないとすると、教員の仕事に比して待遇が悪く、教員のなり手が足りないということを意味するはずです。そうなったら、かなりの予算をかけて、業務改善、待遇改善をするしかないでしょう。

 

学校現場は今、「教師不足」で困っています。文部科学省としてはこれまで何も有効な策をとってこなかった責任をよく認識し、特別免許状の積極活用などという実効性のない策ではなく、ここで述べたような抜本的な対策を今すぐにとってほしいと思います。

「民主主義の理想」を私たちはどう考えればよいのか?

昨日、第148回千葉授業づくり研究会にて、朝日新聞論説委員の沢村亙さんのお話を聞き、ウクライナ危機をはじめとする緊迫した国際情勢に子どもたちとともにどのように向き合うか、議論しました。

 

ace-npo.org

 

沢村さんは、ニューヨーク、ワシントン、ロンドン、パリ、中国等での勤務経験があり、現在は朝日新聞論説委員として活躍されています。ちょうど今朝の朝日新聞「日曜に想う」欄でも記事を書かれています。

 

digital.asahi.com

 

昨日は、沢村さんが今の国際情勢をどのように見ておられるかを分かりやすく話してくださり、いくつも印象に残ることがありました。たとえば、次のことがありました。(以下、すべて藤川の責任でまとめています。)

 

  • ヨーロッパの統合は必要あってのことだが、EUができて国民国家の役割は相対的に小さくなり、そのために民族等が独立を望みやすい状況が生じた。言わば、欧州統合がパンドラの箱を開け、地域紛争・民族紛争につながっている。
  • 為政者が、過去の歴史の中で自分たちの国や民族が傷つけられた歴史を持ち出すことがある。
  • 報道の自由が西側の価値観だと思われてしまい、ジャーナリストは「中立の証人」でなく「攻撃対象」となってしまい、多くのジャーナリストが犠牲になっている。

 

また、子どもたちとともに戦争を考えるヒントになるような情報として、次のような情報を教えていただきました。

 

www.youtube.com

www.savechildren.or.jp

www.unicef.or.jp

www.bbc.com

 

教育基本法を持ち出すまでもなく、私たちは子どもたちが民主的な社会の担い手となることを目指して教育を行おうとしているはずです。言わば、「民主主義の理想」があることが、教育を行う前提になっているわけです。しかし、ミャンマーアフガニスタンで民主的な政権が倒れ、ロシアでは独裁的な権力をもったプーチンが戦争を仕掛けています。民主主義を推進しているはずの欧米でも、分断が深刻です。世界が「民主主義の理想」に向かうはずだという期待は、もはや夢物語になってしまったようです。

 

日本においては、まだ「民主主義の理想」は消えていないと考えたくなるかもしれません。もちろん、日本では制度としての民主政治は定着しており、選挙違反がある程度摘発されるくらいには、まともな民主政治が機能していると言えるでしょう。しかし、「空気を読む」ことが求められ、我慢は美徳とされ、政治的課題を多くの人が我が事と考えにくい状況は生じており、経済格差の拡大は止まらず、女性の社会参画レベルは低いままであり、選択的夫婦別姓制度すら成立しない等、民主主義が成熟しているとは言えない状況にあります。学校においても、教員の過剰労働が放置され、いわゆるブラック校則で児童生徒の自由は過剰に制限され、児童生徒会活動のような自治的活動は活発とは言えません。

 

民主主義であれ権威主義であれ、権力者の暴走や少数者の抑圧の問題が生じうることは間違いなく、国や地域の事情に合わせ、暴走や抑圧を防ぐ仕組みが機能するよう調整していくしかないものと思われます。民主主義になればそれで十分とも言えず、世界が民主主義に向かうという予想も成立しないことを踏まえると、民主主義は理想でなく、好ましい政治のあり方の一条件くらいのものとして考えられるべきなのかもしれません。少なくとも、「自分たちのことは自分たちで決める」という意味での民主主義だけを絶対視するのでなく、偶発的に多様な価値観に出会い、多様性を尊重し、異なる価値観の者どうしの共生のために試行錯誤するという姿勢は重要と思われます。

 

このようなことを考えつつ、学校の授業や児童生徒会活動等が、偶発的に出会った者どうしが、互いの価値観を尊重しながら共生を図る試行錯誤の機会として機能できるようにすることを、具体的に考えていかなければと思います。

 

旭川いじめ事件 三つの論点

旭川市の中学生がいじめを受けた案件で、昨日、調査委員会がいじめの認定について中間報告を行い、多くのメディアで報じられています。中間報告の全文は、以下に掲載されています。

 

news.yahoo.co.jp

 

私も取材を受け、北海道文化放送北海道新聞でコメントを取り上げていただいています。

 

この事件は昨年から文春オンラインが継続的に取り上げていて、書籍としてもまとめられています。文春オンラインの一連の報道がなければ、ここまで話題になることはなかったでしょうし、それまでいじめを認めていなかった旭川市教委が重大事態の調査を行うことは難しかったものと思われます。

 

これまでも法令やガイドラインに従わず、いじめや重大事態の認定を怠る教委が多かった中で、またこのようなことが起こってしまったことは許しがたいことです。しかも今回は、市教委が当初から適切な対応をとっていれば被害者が亡くならずに済んだ可能性があるのですから、関係者の責任は非常に重いと言うしかありません。

 

多くの報道がすでになされていますが、私はまだ注目が必要な点があると考えています。具体的には、以下の3点です。

 

  1. 旭川市教委や学校は、なぜ道教委の指導まであったのに本件をいじめと認めなかったのか。
  2. 被害者遺族の不満は、具体的にどういった点にあるのか。
  3. 犯罪相当の行為を「いじめ」としてのみ報じるのはまずいのではないか。

 

以下、それぞれについて述べます。

 

1. 旭川市教委や学校は、なぜ道教委の指導まであったのに本件をいじめと認めなかったのか。

 

本件がいじめ防止対策推進法上のいじめに該当することはあまりにも明白であり、なぜかいじめと認めていなかった市教委に対して、道教委は複数回、いじめとして対処するよう指導していたと報じられています。それでも市教委は頑なにいじめだと認めず、今回の調査委員会の発表でようやくいじめだと認められたことになります。なぜ市教委も学校も頑なにいじめだと認めなかったのか、不可解です。

 

いじめがあった当時の中学校の教頭が次のように言ったと母親が記録しています(NHK「クローズアップ現代」ホームページより)。

 

『これは単なる悪ふざけ、いたずらの延長だったんだから、もうこれ以上何を望んでいるんですか』っていうことをずっと繰り返し言われました。 

 

一つの可能性としては、このような発言に教頭の本音が表れていることが考えられます。本件で主に問題になったのは、上級生男子生徒が被害者に性的行為をさせたことです。学校としては、被害者が上級生との間であまり健全でない交遊をしていて、その中で悪ふざけあるいはいたずらの度が過ぎたという認識をもっていた可能性があります。端的に言えば、被害者にも問題があったのだから、起きているのは当事者間のトラブルであり、学校は対応する立場にないと考えられていたのではないでしょうか。

 

児童生徒間のトラブルであっても、いじめ防止対策推進法のいじめの定義を満たしていれば、当然、いじめとしての対応が必要となります。しかし、児童生徒間のトラブルであることといじめであることとがあたかも排他的な関係であるような論理的誤謬が学校現場の一部に見られ、児童生徒間のトラブルだからいじめではないという誤った論理によっていじめであることが否定されることがあります。本件でも、このようなことが起こっていた可能性があります。そして、そうなる背景には、被害者側にも問題があるという認識があると考えられます。

 

なお、本件について多くの報道が出ている中で、被害者が加害者である上級生とどのようにして関わるようになったのかが、あまり具体的に報じられていません。被害者は中学校に入学してすぐ、加害者である上級生と関わり、被害に遭っています。オンラインゲームをやっていたという話はありますが、単にゲームで知り合っただけで、どうして酷い被害に遭うほどの関係になったのかがわかりません。学年が違えば、学校生活ではあまり接点はないはずです。このあたりのことがわからないので、学校の対応についても理解が難しくなっているのかもしれません。

 

2. 被害者遺族の不満は、具体的にはどのような点にあるのか。

 

報道では、被害者遺族は今回の調査委員会の発表に不満をお持ちとのことです。いじめに関して遺族の話を調査委員会が聞いていないということのようなので、不満が生じるのは当然です。被害者側の話を丁寧に聞くのは事実の解明において当然必要なことなので、調査委員会が話を聞かないのは、理解に苦しみます。

 

もし遺族の話が聞けていたら調査にどのように影響が生じたのかが、気になります。今回の発表でも加害者たちの行為が大変酷いものであったことはわかるのですが、遺族としては異なる捉え方をされているのかもしれません。いずれにしても、調査において被害者側の話をしっかりと聞いてもらわなければ困ります。

 

3. 犯罪相当の行為を「いじめ」としてのみ報じるのはまずいのではないか。

 

本件でいじめとされている行為の中には、犯罪に該当すると考えられるものがあります。わいせつな写真を撮らせる行為は児童ポルノ製造、性的な行為をさせることは強制わいせつ罪あるいは強要罪に該当するものと考えられます。しかし、報道の中でこうした犯罪にあたるという話があまり出ていないので、違和感を覚える人も多いのではないでしょうか。

 

文春オンラインによれば、加害者の一人の行為は児童ポルノ製造に該当するものの、行為者が14歳未満だったために刑事責任は問われず触法少年として厳重注意され、他の数名については強要罪の該当が検討されたが証拠不十分で厳重注意にとどまったとのことです。

 

本来であれば、本件は女子中学生に対する酷い犯罪として取り扱われるべきで、加害者にどのように指導をし、被害者をどのようにケアすべきだったかが問われるべきだったのではないでしょうか。ところが、このような議論は見られず、いじめかどうかばかりが注目されてきました。

 

「いじめは犯罪です」と言われることがありますが、いじめ防止対策推進法で定義されるいじめは犯罪よりもずっと広い概念です。教室の中で「いじり」をしたり無視をしたりすることは、された側が苦痛を覚えればいじめですが、もちろん犯罪ではありません。いじめの中に犯罪に該当するものとそうでないものがあるわけです。そして、いじめ自体に法律上の罰則がなく、犯罪には罰則があることを考えれば、いじめでも犯罪でもある行為については、まず犯罪として捉えることが必要ではないでしょうか。

 

昨日からの報道の中で、加害者の行為を犯罪として捉えたものがないことが私は気になっています。

 

 

本件は、まだまだ解決していません。今後も調査委員会の動向や関係する報道に注意を向けていきたいと思います。