藤川大祐 授業づくりと教育研究のページ

藤川大祐のブログです。千葉大学教育学部教授(教育方法学、授業実践開発)。プロフィールは「このブログについて」をご覧ください。

稲垣忠彦先生の訃報を知って

 昨日から明日まで、日本教育学会第70回大会が千葉大学で開かれている。私は大学院生の頃からこの学会の会員だったが、この10年ほどは、ほとんど学会の活動に関わったことがなかった。毎年この時期は他の活動が重なることが多いとか、自分でやっていることがこの学会にはなんとなく会わない気がするとかといった曖昧な理由はあるのだが、なんとなく距離を置いてきた。しかし、今年、勤務校である千葉大学で大会が開催されることとなったため、久しぶりに参加することとなり、大会開催校の一員として運営に携わっている。

 そんな大会2日目の今朝、東京大学名誉教授である稲垣忠彦先生の訃報を知った。ショックだった。

 私は、1984年に東京大学文科1類に入学したが、入学後に法学や政治学ではなく実践的な学問をやりたいと考えるようになって、1986年の3年次から教育学部に進んだ。当初は教育心理学科への進学を考えていたが、稲垣先生をはじめ、後に指導教官となった藤岡信勝先生、当時認知科学の日本での構築につとめておられた佐伯胖先生といった方々の話を聞いたり授業を受けたりして、学校教育学科に進み、教育方法学や教育内容学を学んだ。そして、授業を研究し、将来は魅力的な授業を行うことができる教員の養成に携わりたいと考え、大学院に進学し、研究の道に進むこととなった。

 私が学部学生の頃の稲垣先生はすでに大ベテランの教授であり、熱心に授業研究の魅力を説いておられた記憶がある。当時耳慣れなかった「カンファレンス」という概念を使い、一つの授業を多方面から見る「羅生門的アプローチ」の必要性をおっしゃっていた。実際に、多様な分野の方々を授業研究に招き、授業について語り合う取り組みをなさっていた。第三土曜日に定例研究会をされていて、それが「第三土曜の会」という名前だったと思う。この会は、学部生の私には敷居が高い、あこがれの場であった。

 当時の学校教育学科では、3年次の必修授業で、伊豆の湯ヶ島の小学校に3泊4日で行き、学生が全員授業をするという取り組みがなされていた。おそらくこれは、稲垣先生が中心になってなされていたものだと思う。この合宿で私は、水俣の人々の話の授業をやらせていただいた。授業も一生懸命やって思い出深いが、障害児学級に毎日顔を出させていただいて児童と関わらせていただいたことや、湯ヶ島の温泉旅館で稲垣先生をはじめとした先生方と酒を飲みながら話をしたことが印象深かった。翌年の4年次にも、卒論に必要だからという理由で頼み込んで、湯ヶ島に一緒に行かせていただいた。生意気な学生であったと思うが、先生方は大変寛容であり、稲垣先生はそうした寛容な雰囲気の中心におられた。

 その後、私は藤岡先生や佐伯先生、さらには佐藤学先生や中田基昭先生といった先生方のご指導を受け、私なりに授業研究を重ねていった。稲垣先生は学部長もなさり、定年を迎えられたりして、稲垣先生との接点はあまりなかった。ただ、M2のときに博士課程進学が不合格となり、そのことについて研究室を訪ねた折には、暖かくしかし厳しいご指導をいただいたことだけは覚えている。

 その後は稲垣先生とお会いすることもなく、稲垣先生とは離れた道を歩んできたように思う。稲垣先生がなさっていた以上に実践的な研究をしたいと考え、現場の教員たちと一緒に研究をしたり、自ら授業を開発したりして、実践的な研究を重ねようとしてきた。ただ、そうした中でも、「カンファレンス」とか「羅生門」という言葉は、いつもどこか引っかかっていた。授業研究が学校の教員だけで閉じるのではなく、学校内外の多様な方々が関わり合うことで胖になるということは、いつも考え方の前提になっていたと思う。

 結局、稲垣先生に何の恩返しもしないまま、稲垣先生は帰らぬ人となってしまった。大学教員を退かれたあとも長野で教育研究をされていた稲垣先生が、晩年にどんなことを考えておられたのかは、もう想像するしかない。

 東大教育学部には、学閥のような関係はどうもないように感じる。大学院の先輩や同期、後輩の人たちともあまり関わることなく、赤門をくぐることもほとんどないまま、時間だけが経過してしまった。これでよかったのかどうか、今はよくわからない。

 ただ、私は東大教育学部にも日本の教育学界にも危機感を覚えてはいる。学生時代に教育学とは何をするものなのかがわからなかったが、その謎は深まるばかりである。そして、現在40代や30代の教育研究者の発信はかなり限定されていると感じる。実践的な教育研究の最先端を走っていたはずの東大教育学部には今や学校教育学科はなく、志向を変えてしまったように見える。

 東大教育学部にいた頃、実践的な場として輝いて見えた千葉大学教育学部に、今は在籍している。そして、実践的であることを前提としつつも、学術研究にふさわしい教育研究の新たなパラダイムを構築したいとも思う。今後の研究者としての活動の中で何ができるのか、稲垣先生が亡くなられたということを聞いて、考えずにはいられなかった。

 ここに書いたような感情的な文章を書き、公にすることは、どうも自分らしくないようにも思う。しかし、お世話になった師のことを思いこうしたことを書くこともあってよいのかなとも考えている。

 稲垣忠彦先生への感謝をこめて。