藤川大祐 授業づくりと教育研究のページ

藤川大祐のブログです。千葉大学教育学部教授(教育方法学、授業実践開発)。プロフィールは「このブログについて」をご覧ください。

掲載されるに至らなかった教材文

 ある会社から、中学校3年生向けの国語の教材文の執筆を依頼されました。私なりに書いたのですが、特定の事件にふれることも若者の逸脱行動について書くことも認められないので修正してほしいと言われました。全部直せと言われているに等しいので、私から執筆を辞退させてもらいました。

 教材とするにはもっと練らなければならない文章かもしれませんが、せっかく書いたものですので、ここに公開させていただきます。この文章を活用していただける方がおられましたら、ぜひご一報ください。

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世界とのつながりを知る

                                藤川大祐

 インターネットでの若者の発信が問題になっています。遊園地で上半身裸になって暴れ、その様子をネットに流した大学生がいました。コンビニエンスストアの店員が、アイスクリームケースの中に入って写真を撮り、その写真をネットで発信したことがありました。ある駅で人を殺すという犯行予告をネットに書き込んで逮捕された中学生がいました。

 このような行為をする若者は、善悪の区別がついていないのでしょうか。そんなことはないでしょう。遊園地で暴れたり、アイスクリームケースの中に入ったり、犯行予告をしたりすることが悪いことだと、彼らが知らないはずはありません。

 むしろ、彼らは自分たちの行為が悪いことだとわかっているからこそ、こうした行為をしてしまったと考えられます。若い人が、社会の秩序に反抗し、常識から逸脱する行動をとることは、いつの時代もありうることです。逸脱行動をとることによって、仲間たちが面白がってくれたり、「なかなかやるじゃないか」と認められたりすることもあるでしょう。インターネットで問題ある発信をすることも、一種の逸脱行動と考えられます。人は、社会の秩序に従ったり反抗したりしながら、少しずつ自分なりの社会の関わり方を安定させていくものなのかもしれません。

 大人になってしまえば、若い頃に多少の逸脱行動があったとしても、そうした行動が問題になることはなくなります。立派なことをしている大人が、「若い頃はやんちゃで、馬鹿なことをやっていた」と逸脱行動について話すことはよくありますが、こうした話を聞いても、いったいどんな悪いことをしたのだろうと深刻に気にする人はあまりいないでしょう。

 しかし、インターネットでの問題ある発信の場合は、様子が違います。問題ある発信がいったん注目されるようになると、瞬く間にその発信を紹介し非難する人が増えていき、「炎上」と呼ばれる状態になります。テレビや新聞でも報じられるなど、社会で広く知られるようになります。非難がエスカレートすると、発信者がどこの誰なのかを暴いて、家や学校に電話をかけるなどの攻撃をする人が出てきます。こうした攻撃は過剰な社会的制裁であり、許されるものではないのですが、止めることは困難です。結局、内定していた就職が取消になったり、コンビニエンスストアが店を閉めることになったりと、当事者や関係者が大きな代償を払うことになります。

 そして、「炎上」がおさまっても、その「炎上」の記録はずっとインターネット上に残っていまいます。インターネットで少し検索すれば、何年も前の「炎上」の記録を読むことができます。大人になっても、検索可能な状態で、逸脱行動の記録が残されてしまうのです。

 インターネットが普及する以前は、社会に広く発信するための手段は、テレビや新聞などのマスメディアに限られており、一般の人が広く発信することは不可能でした。ですから、一般の人に起きているさまざまなことの多くは、すぐに忘れられ、話題にのぼらなくなっていました。しかし、インターネット社会の現在、多くの人が日々インターネット上のサービスにさまざまなことを投稿し、その投稿は公開され、記録されていきます。場合によっては、投稿が他の人に紹介され、インターネット上を拡散していきます。

 テレビや新聞といったマスメディアには、広く情報を発信する立場にふさわしい責任が問われてきました。情報発信において誤りや極端な偏りは許されず、報道などによって不当に人を傷つけることもあってはなりません。本来、インターネットで発信する人にも、テレビ局や新聞社に近い責任が求められているはずです。

 このように言うと、インターネットで発信する人の大多数は、発信してもそれを見る人は限られており、影響力が少ないからマスメディアと一緒にするのはおかしい、と言われそうです。たしかに、日常の発信においては、多少の誤りや偏りがあっても特に問題にならないでしょうし、問題になったとしてもすぐに訂正したり誤ったりすれば、それで済んでしまうでしょう。

 しかし、若者の発信は影響力が少ないと考えてしまうところに、「炎上」につながる発信を生むものがあります。インターネットで発信する若者の多くは、内輪の仲間たちに向けて日常の情報発信を行っています。しかし、インターネットは世界につながっているもので、公開のサイト等への投稿は、原理的には世界中の人が見られるものです。無名の若者の投稿であっても、ひとたび注目を集めたら、大きな影響力をもちえます。いつも意識している内輪の仲間たちの外側に、世界につながる大勢の人がいるということを想像する力が、重要だということになります。

 インターネットは世界とつながっているにもかかわらず、インターネットを利用する若者の意識は、内輪の仲間たちばかりに向きがちです。学校で毎日会っている人たちと、家に帰ってからもメールやメッセージを送り合い、サイトへの投稿を互いに読み合ってコメントを書いたりします。インターネットは、関わる世界を広げるより、内輪のコミュニケーションを深めることに使われています。

 内輪の人たちとのコミュニケーションは、より広い人たちとのコミュニケーションと異なる性質をもっています。内輪の人どうしであれば、さまざまな文脈を共有しているので、断片的な言葉だけでもコミュニケーションが成立します。たとえば、同じ漫画が好きな人どうしであれば、「5巻、読んだ?」「うん。すごくよかった」というようなやりとりが成立します。しかし、何という漫画を読み、どこがどのようによかったのかを説明しなくても、どのような漫画の話で、どのような期待があったのかが共有されているために、説明を加える必要がありません。しかし、文脈を共有していない人に対しては、どのような漫画のどこがどのようによいのかを明示的に知らせる必要があります。

 文脈を共有していない相手に対して適切に説明するためには、練習が必要です。練習は、インターネット上でのみ行う必要はありません。日頃から保護者や教師以外の大人と話をする機会をもつこと、学校外の人にインタビューをすること、異学年の人や学校外の人に対して発表を行うことなども、文脈を共有していない人への発信の練習となるでしょう。

 そして、インターネットを使って、さまざまな人たちと交流することも可能です。中学生や高校生が、興味のある学問や仕事に関わる人から助言をもらったり、自分の意見を発表したりすることもあります。部活動や委員会で取り組んでいることを発信したり、作品をインターネット上で発表したりすることもできます。災害時には、被災地の状況を現場から発信することも必要となるでしょう。事件やトラブルに遭わないよう注意をしながら、インターネットで文脈を共有していない多様な人々と交流することで得られることがあるはずです。

 インターネットは、世界とつながっています。このインターネットをどのように使うのかが、現代を生きる私たちには問われます。この問いに答えるために、内輪の仲間たちだけでなく、外側にいるさまざまな人々のことを考える想像力を育てていきたいですね。