藤川大祐 授業づくりと教育研究のページ

藤川大祐のブログです。千葉大学教育学部教授(教育方法学、授業実践開発)。プロフィールは「このブログについて」をご覧ください。

「ダブルバインド型いじめ」としての「ステメいじめ」や「いじり」(メモ)

最近のネットいじめについて。具体的に誰かの悪口を言うのでなく、誰のことだかわからない形で「むかつく」「調子に乗るな」などと書くものが多く報告されている。典型的には、LINEのステータスメッセージ(ステメ)にこうした言葉が書かれる。

文脈を共有している者たちから見ると、これが誰について書かれたものかが明らかに思える。当然、対象となっていると思われる者がこうした悪口を知れば、苦痛を覚える。一定の関係がある者の行為によって被対象者が苦痛を覚えれば、その行為は法律上、「いじめ」に該当する。

だが、こうしたステメいじめでは、書いた者はたいてい言い逃れようとする。別に学校の誰かのことを書いたのではない、漫画、ドラマ、ゲーム、ネット等の何かにむかついたからその気分を書いたのだと言うのである。すると、ステメいじめの被害を訴えても、訴えた者は救われない。それどころか、「おまえのことを言っているんじゃないので何言ってるの? 自意識過剰じゃない?」などと言われ、さらに苦痛を与えられることとなりかねない。

では、対象となっていると思われる者は、訴えずにいえればよいのか。訴えなければ、いじめは解消せず、苦痛が続くことになる。継続的に同じようなことが書き続けられれば、堪えられなくなるかもしれない。

このようなステメいじめの構造は、「いじり」によるいじめの構造と似ている。「いじり」では、悪口等が言われているとしても、それは真剣なものでなく、「お笑い」の一環とされる。だから、「いじり」による苦痛が嫌だと真剣に訴えても、「どうしてそんなに真剣になってるの?」と嘲笑されかねない。そうなればさらに苦痛を与えられることとなる。もちろん、何もしなければ、ずっと「いじり」を受け続け、苦痛を与えられ続けることになりかねない。

これらに見られるのは、「ダブルバインド」の構造である。ダブルバインドとは、ベイトソンによって提起された概念であり、二つの相矛盾する要求が突きつけられ、どちらの要求に従っても制裁を受ける状況を言う。わかりやすい例としては、親が子どもに「おいで」と言いながら表情や身体が子どもを拒否している状況だ。子どもとしては、親の方に行っても行かなくても、制裁を受ける。これは一種のジレンマである。相対的に権力をもつ者が単独で作り出すジレンマ構造が、ダブルバインドだと言えばよいだろうか。

誰のことかを明示しない形で悪口を言うというのは、風刺にも見られる。ただし、風刺は想定的に権力をもたない者がもつ者に対して行うことが基本だったはずだ。権力がない者が権力をもつ者に対して、あからさまに反抗するのでなく、誰のことかを明示しない形で批判する。権力の側も、明示的に批判されたわけではないので、基本的には目くじらを立てず放置しておく。こうした形で風刺は成立する。

だが、ダブルバインドは基本的に、権力をもつ側がもたない側を拘束するものである。ダブルバインドを作り出すことで、権力をもつ側は、直接批判されることを回避しながら、権力をもたない側に深刻なストレスを与えるのである。

では、ステメいじめのようなダブルバインド型いじめにどのように対応したらよいだろうか。悪口を書いた者の意図を確認して対応するのでは、もうダブルバインドを作り出す側の術中にはまっていることとなる。悪口を書いた側の意図は確認できなくても、誰のことかが明示されない形で誰かの悪口を書くこと自体が問題だという論理を使う必要がある。言い換えれば、ダブルバインド状況を作り出すこと自体が、卑劣で許されないのだという論理を使うしかない。

このようなことを考えさせる教材が求められている。