藤川大祐 授業づくりと教育研究のページ

藤川大祐のブログです。千葉大学教育学部教授(教育方法学、授業実践開発)。プロフィールは「このブログについて」をご覧ください。

ランダム性を取り入れたデザイン論に向けて

愛読させていただいているPLANETSのメールマガジンの今日の号に興味深い記事があったので、忘れないようにここに書いておきます。落合陽一さんによる「マタギドライヴ」の連載の最終回です。

 

wakusei2nd.com

 

そもそも「マタギドライブ」って何というのはこの連載を読んでいただきたいのですが、「マタギ」とは東北地方などの山岳地帯で狩猟をする人々のことだということは踏まえておいてほしいと思います。(個人的にはマタギというと岩手県を連想し、3.11の今日のこの日ともつながっていると感じています。)

 

落合さんは次のように書いています。

 

 (略)現代の資本主義システムが適切な再分配構造を持たないことで生じる格差については、ラディカルに確率論を導入していかないと解決に向かわないと考えています。実際問題、お金や実力があっても、試験に落ちたり、選別から外れたりする人は確率的に出てきます。つまり、実力主義に立脚した公正性だけに依拠するのではなく、ある程度は運の要素をパラメーターに入れた上で制度設計をしないと、格差は解消できない。オードリー・タンとの対談でもそうした話になりましたし、マイケル・サンデル『実力も運のうち──能力主義は正義か?』でも同様の議論がなされていました。
 このようにある種の確率論なしには社会が成立しえないという認識は、これから経済政策をめぐる領域などで一般的な認識になっていく可能性が高いです。

 

要は、運とか偶然といったランダム性を含めないと社会は成立しえないという話です。素朴に考えると、能力とか努力といったものが適切に評価され、偶然悲惨な目に遭うようなことがなくなればよいと思われるかもしれません。しかし、落合さんは、それを否定します。ランダム性がなくなってしまえば、「最適化の罠」から逃れられず、「人間は連結されたコンピューター以上でも以下でもないものになってしまう」(連載第9回)と言っています。

 

落合さんが言及しているマイケル・サンデルはどうでしょうか。

 

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サンデルは次のように書いています。

 

人はその才能に市場が与えるどんな富にも値するという能力主義的な信念は、連帯をほとんど不可能なプロジェクトにしてしまう。いったいなぜ、成功者が社会の恵まれないメンバーに負うものがあるというのだろうか? その問いに答えるためには、われわれはどれほど頑張ったにしても、自分だけの力で身を立て、生きているのではないこと、才能を認めてくれる社会に生まれたのは幸運のおかげで、自分の手柄ではないことを認めなくてはならない。自分の運命が偶然の産物であることを身にしみて感じれば、ある種の謙虚さが生まれ、こんなふうに思うのではないだろうか。「神の恩寵か、出自の偶然か、運命の神秘がなかったら、私もああなっていた」。そのような謙虚さが、われわれを分断する冷酷な成功の倫理から引き返すきっかけとなる。能力の専制を超えて、怨嗟の少ない、より寛容な公共生活へ向かわせてくれるのだ。

マイケル サンデル. 実力も運のうち 能力主義は正義か? (Japanese Edition) (p.325). Kindle 版.

 

サンデルは、能力主義が分断につながり、幸運に感謝することが連帯につながると言いたいのでしょう。

 

サンデルは、大学入試に抽選制を取り入れることを提案しています。私はあえて抽選制を取り入れなくても、1回限りの試験でたまたまできたりできなかったりするという幅がある程度あるようであれば、それでよいのではないかと考えます。この考え方は、数学者で「水道方式」の創始者である故・遠山啓が能力主義を批判して論じていた議論に依拠しています。

 

amzn.to

 

落合さんは、ソーシャルデザインにランダム性を取り入れようと考えておられるのだと思います。私はこのことに賛成ですし、教育に関するデザインにもランダム性を取り入れることが必要と考えます。こうしたことを進めるためには、ゲーム論の知見が役にたつでしょう。

 

ランダム性を取り入れたデザイン論という考え方が、求められるのではないかなと考えています。